「国史における明治の位置」

「国史における明治の位置」江戸編

◇主催:皇室と日本を考える、於文京区勤労福祉会館、2010年11月
【冒頭・問題の所在】

 それでは始めさせていただきます。宜しくお願いします。本日は明治節ということで石川さんより何か一つやってくれと言われたのですけれども、実はこの「国史における明治の位置」というタイトルは私の発案ではありませんで、石川さんからいただいたものであります。これを用いましたのは、これはいいなと思ったんです。と言いますのは、国史を軸にして明治を見るとは一体どういうことなのかということは、非常に重要だからであります。これを通じて今回何を申し上げたいかと言いますと、それは我々が日常のこと政治のこと、どんなことでもかまわないんですが、あらゆる問題に対して自由にものを見、また自分の頭で自由に考えていると思っている。まあ皆さんそうお考えだと思いますが、それは果たして本当なのかと、この問題について国史を通して見ることができるということであります。これが何を言っているのかということは、恐らく終わりの頃になればご了解いただけるのではないかと思います。ではまず「江戸の部」と題しまして江戸から見てゆきたいと思います。

 

【国史の発生】

 さてこの国史というのは、国の歴史を扱ったものが全て国史というわけではございません。国史とは朝廷に認められたものであり、国の歴史を一貫して説明したものでなければならない。これが国史であります。従って例えば新井白石の『読史余論』であるとか頼山陽の『日本外史』といったものは、これは朝廷に認められていませんので、国史ではございせん。で、そういった国史というものが、どういうふうにして発生してきたのか。古くは『六国史』なんていうのもございますが、国史というものが自覚的に編集されたという点におきましては、江戸が非常に特色がございます。その国史の代表例というべきものが『大日本史』であります。

 この『大日本史』は有名な水戸光圀によって、ちょうどこの駒込で編集が始まりました。それはただ単に歴史を書くということではありません。ちょうど元禄元年(1688年)に書かれた栗山潜鋒の『保建大記』というものが水戸学の形成において大きな意味を持つんですが、何を言ったかというと『神皇正統記』における「廃帝」というところの重視なんです。そこでは朝廷の政治が幕府に移ったのは朝廷に徳がなくなったからだと、徳というものがきちんと修められていなければ朝廷であるといえども政権を移さざろう得ないと、これは北畠親房が言っておるんですが、これを栗山潜鋒は非常に重視しまして、日本というのはずっーと徳で続いてきた国なんだということを書きます。或いはその影響を受けまして、正徳二年(1712年)には新井白石が『読史余論』を文昭院徳川家宣公にご進講しまして、『神皇正統記』における「勢」というものを重視するという歴史観を提示します。これも同じく我が国の歴史は徳というもので貫かれているんだと書くわけです。このように歴史というものはただ単に事実の羅列ではございませんで、一つ一つの記事であるとか言行といったものにどういう意味を認めていくのか、それは是なのか非なのか、そういったことを一貫したある一つの立場から価値づけてゆく。そうして我が国の一貫した流れであるとか利害得喪といったものを明らかにしてゆくことが、日本の歴史の在り方であると明確に規定されていくわけであります。

 そこで水戸黄門でいう助さん格さんの間では非常な喧嘩がおこります。一方の助さんの方は京学派、京都ご出身なのですが、歴史をきちんと羅列してゆけばいいんだと言うのに対して、格さんの方は水戸の生え抜きなのですが、こちらは冗談じゃないと、きちんと一つ一つの事に対して断を下してゆくべきであると言って大喧嘩になるんです。結果としてこれは、格さんと呼ばれる安積澹泊が勝ちまして『大日本史』に論賛というものをつけてゆきます。それが享保五年(1720年)に完成しまして、『大日本史』はただ単に歴史をまとめていく書ではなく、論賛を通じてある歴史に対する断を下して、統一意志を表明してゆくんだということが明確になってまいります。これが前期水戸学と言われるものです。

 この前期水戸学を通して出来上がってきた歴史学というのは、一方において歴史学なんですけれども、一方において政治学になります。と言いますのは、徳というものを基準にして政治を判断してゆくのであれば、そこから今起こっている時勢に対して、それが是なのか非なのか、こうすべきかああすべきか、何を先にすべきか後にすべきかといった問題に対しても当然意識が高くなってくるからです。そこから中期水戸学というものが出てくるわけですが、その前にこの歴史書というものだけではなくて実は江戸という体制が、こういったものを非常に容易に考えさせる基盤となっていたことをご説明申し上げます。それが徳川家康です。

 

【東照神君の創業垂統】

 この徳川家康という人は、ただ単なる天下人ではないと江戸の人々には考えられておりました。例えば『本多平八郎聞書』というものがございます。これは有名な武将の本多忠勝が色々と昔から聞いてきたことで、ああ大将いいこと言ってるなと思うものをまとめたものであります。ここで特徴的なのは徳川家康という人が、日本人というのはどういう民族なのかということを明確に何度も執拗に言っていることなんです。つまり日本人というのは、御天道様によって役目を与えられているんだと。そして先祖から代々そのお役目を尽くしていって、次第次第に子孫の方まで受け継いで受け継いで受け継いで、その仕事を完成させるために生きているんだよと言います。ですから、人というのは一人で生まれたんじゃないんだと。ご先祖様からずっーと仕事を受け継いできて、それを完成させる為に我々がいるんだから、訳の分からないことや我が儘なんていうのは言っちゃいけないんだと。自分の立ち位置というのを常に自覚して生きていかなきゃいけませんよと申します。これが家康の天道という考え方です。で、その御天道様というのは何を目的としているのかというと「国家を守らせ、民百姓を安からしめん為なり。天道も又斯の如し」と申しております。人々をそれぞれの役割に置くことによって、国家を守り民百姓を安んじると、こういうことなんですね。つまり何か細々とした理論なんてのはないんです。要は皆が日常の生活を穏やかに送れるんだと、こういうことを目的としている。穏やかに送るということは当然文明も進んでまいりますから、社会も複雑化してまいります。それに応じて色んなものを開発したり発明したりする。そういったことも御天道様の目的なんです。御天道様がそういったことも含めて生活を豊かにし安んずると、こう考えているんですよと家康は申します。

 しかしながら、人というのは私心であるとか我が儘というのが非常に多うございますから、そうなんですよはあそうですかと言っても当然すぐにできるものではない。従って家康は、学問というものを重んじよと言います。では、その学問とは何なのか。物理を学ぶものなのか、或いは技術を学ぶものなのかと申しますと、そうではない。家康はこう申します。「物の本を読事は身を正しくせん為なり」と。つまり本を読むということは身を正しくするためである。「一句見ては我心頭に引受、一言聞ては其まま用る筈なり」と。つまりそれまで五山の僧侶であるとか或いは公家の御学問といったものはあくまで教養であったわけですが、家康はそうじゃないんだと。御天道様の道というものをきちんと把握して生活に反映させるためには物の本、家康からすればこれは儒教の経書なんですけれども、これを読み込んで身を正しくしなければならない。だからただ知識を積むだけではいかん。そうではなくて日常生活の中で自分の身に引きつけて、これは正しいのか正しくないのかどうしたらいいのかと、こういったことを反省する。孔子や孟子の言葉なんてのをただへえへえ有難い有難いなんて言って聞くんじゃなくて、自分のことに引きつけて考える。これが学問ですよと申します。従って一つ一つの物の本をきちんと読み込むという学問は「人道の吟味是より起る」と申します。きちんと経書を読む、きちんと勉強するということは人道の吟味のためなんです。ですから校正だとか出版だとかということもただテクニカルなものではなくて、家康は私が慶長版伏見版を出すのもこれは人道の吟味のためなんだと一貫して申します。

 そういった家康にとって、武士という者の位置づけも変わってきます。「侍たる者は常の者に替る所一つあり。誠を守る一種の事なり」と。その誠というのは、自分が相対する相手によって当然対処も変わってきますから、それに応じて色々と変わってまいります。「主には忠、親には孝、臣には礼、子には慈、同体異名なり」と、こういうふうに申します。で、民百姓というのはなかなかこういうことをすぐには出来ないけれども、お前たち武士は昔の戦国の荒々しい武者とは違うんだから、これからはこの誠というものを持って、忠孝礼慈という四つの徳をきちんとそれぞれの場で尽くしてゆかなきゃいけないよと申します。従って「武士の有んかぎりはこの道理すたるまじ」となるわけです。そして「武士たるものは道にうとくしてはならず、道義を第一心懸べし」と。つまり徳川家康という人は、武士に対してただ単に戦闘のプロであるとか政治家・官僚といったものを求めるのではなくて、もう一方では天道という考え方から、これは御天道様という実感ですが、そこから武士という者にはこの御天道様の道を守っていく、この道義というものを守っていくという思想的な内容も含めて国防を担うよう要求した人物であります。

 で、この『本多平八郎聞書』というのはただのメモ書きではございませんで、当然天下人でありますから他の諸大名も家康公は何が好きで何をしたいのかということは一所懸命聞きたがるわけです。ですからこの聞書とは別に、或いは『武野燭談』であるとか『松のさかえ』といったような類書が爆発的に出まして、これによって諸大名が一気に御学芸に向かってゆくんです。徳川家ってのはどうも儒教を重んじているらしいぞと、家康ってのは何か人道がどうだとか言っていると、従ってうちでもやりましょうとなってゆく。ここに一つ思想史とは別に社会的な意味での風潮として、こういったものを重んじる風というのが、実は家康によって意識的に興されています。家康は意識的にやっております。こういう基盤があったわけです。従って歴史を書くときも、ただ単にこいつは戦争がどうだとか経済が上手いとかそういうことではなくて、これは道義的にどうなのかという歴史に対する物の見方が生まれるのも自然の勢いだったと言うことができます。

 そのように道義国家建設ということが闡明にされ、武士という者はただ単に戦闘員ではなくて君子でなくてはならないとする類書が増えて、家康公は単なる天下人ではなくて日本の国柄を回復した将軍であると言われるようになります。この時に特徴的なのは、家康公は周の文王に等しいという考え方が出てくることです。その言わんとするところは、これにはこういう意味がある、あれにはああいう意味がある、それらは一貫してこういうために存在しているんだと、ありとあらゆるものを一つの意味の元で説明することを可能にしたということです。そうしたことを覆った人という意味で、家康公は「東照神君」と名付けられるわけです。従って「東照神君」というのはただの神様の名前ではない。全てのものを徳義で覆った将軍であったと考えられます。

 

【白楽翁の保業守成】

 で、こういった印象というのは当然後代にまでつづくわけです。白楽翁松平定信公が出てきた時には、ちょうど天明の大飢饉であるとか京都御所の焼失、或いはロシアが南下して来て北海道とか青森・岩手や茨城辺りを略奪してまわるといった問題が起こってきて、多事多難であると。何から先にすべきか、何をすればいいのかということで非常に迷うんです。松平定信というのはこれを解決する為に、では諸国の学者に意見を聴取しようと言って、言いたいことがあるなら誰でも来いと命じます。そうした時に二人の大きな思想家が登場して、二つの代表的な意見を述べます。それが水戸学の立原翠軒と国学の本居宣長であります。

 立原翠軒はこう申します。水戸藩が独自に調べ上げた結果、北方はこうなっておる、地理はこうなっておる、また我が国の道はこうであると一通り言うんです。そうして北方情勢が不安な現在、決して国防を看過すべきではなく、今こそ東照宮の真精神に回帰して道義を闡明にし、広く教を興して富国強兵に舵を切り替えるべきだと申します。と言いますのは、家康という人は政治と軍事がすぐにスライド可能な体制というのを実は駿府時代から作っているんです。これは國學院の二木謙一教授の研究で明らかなんですが、老中であるとか若年寄であるとか何たら奉行というのは、戦時体制になるとすぐ軍事組織に変わるようになっている。そして軍事組織に変わった時にすぐに統帥が発令しやすいように、それぞれ家老だった人は老中だとか侍大将だった人は奉行だとかというふうに、軍人と文人というのが全くぴったり一致して、すぐに戦時静時でスライドできるように作ってあるわけです。これを立原翠軒は重視しまして、だから東照宮の真精神に帰れば富国強兵をするんだと。そうして人々に現状をよくよく説明して危機感を共有し、国民の意識変革をすべきだと、こんな危機の時に太平に慣れて怪しからんと主張いたします。

 それに対して本居宣長はこう申します。人の善悪というのは禍津日という悪神のなせる業なので、修養とかでどうこうできるものではないんだと。改革改革なんて言うけれどこれは以ての外であって、人は修養で向上するなどという驕り高ぶったさかしら心を起こすからこういった小手先の議論が起こるんだと。よって道徳などを説く儒教を禁教にすると。そうして天照大神の道を体現された、これは宣長の造語で読み方が面倒くさいんですが、の古法を守って一切の改革をせず、御神徳を願ってひたすらに祭祀すべきだと『玉くしげ』に書きまして定信に出します。

 この議論の特徴としましては、どちらもある国史的なことを書くんです。当然立原翠軒は水戸学の国史ですね。それに対して宣長は、自分の書いたものはいずれ朝廷に認められて国史になるんだという発想から一所懸命書いて、『玉くしげ』の中にもそれがいくつも出ておりますが、そういったところから東照神君というものを日本の精神的復興者であると言います。面白いことにこれは翠軒と一致しているんです。近代から見ると宣長は国学者だから徳川なんか嫌いだったろうと思われがちですが、そうではない。彼ら二人とも同じことは、東照神君は日本の精神的復興者だと言うんです。ただそのアプローチ方法で対立して、改革か守旧かということで分かれるわけであります。で、結局定信は立原翠軒の方を採用しまして、我が国は道義の国であるとし、改めて東照神君路線に戻ることを闡明にした上で、宣長の言ってることは宣長自身が何時も人のことを言っているのと同じように、どうせ僻事だと申しまして却下いたします。

 

【大政委任論】

 こういった流れの中で、立原翠軒の弟子の藤田幽谷は『正名論』を作るわけです。名を正す議論です。ここで言っているのはこういうことです。日本のは、家康の頃は天道の命と言われていたんですが、幽谷は王道であると規定します。で、幕府の存在というのを王道の代行者であると申します。そうして忠誠の経路は「卿大夫→諸侯→幕府→皇室」である。つまり全ての国民が、天皇にいきなり全部向かうんじゃないんだよと。例えば卿大夫というのは諸侯しか目の前に居ないんだから諸侯に忠誠を尽くすんだ、諸侯というのは幕府しか目の前に見えないんだから幕府に忠誠を尽くすんだ、幕府というのは皇室が目の前に居るんだから皇室に忠誠を尽くすんだ。こういうふうに段階的に忠誠を尽くしていって、自分が係わっている社会構造の中で忠誠というのを直近の目上の人に尽くしてゆくと、日本というのがきちんと治まるようにできているんだよと申します。これが大政委任論という考え方です。似たようなことは立原翠軒や本居宣長も言っているんですが、しかしながら幽谷が初めて『正名論』の中で明確に打ち出したわけであります。

 ここで一つ特徴がありまして、幽谷はあくまで王道の遂行者は天皇でなきゃいけないんだと言うんです。従って天皇が政を行わなきゃいけないんだけれども、歴史から考えて現実的には天皇にその力はない。皇室にその力はないんだから、大政委任によって将軍が治めるんだと。つまり将軍というのはあくまで武力で政権をとった覇者であるけれども、覇者の助けによって王者というのが王道を遂行するようにできている。これは覇者が王道を行う王道政治とまあ王覇みたいなことになるわけです。で、これが出た時に立原翠軒は大変激怒いたしまして、怪しからんと全く分かってないと言って喧嘩になるんです。立原翠軒からすればそうではなくて、幕府も王道の中で自然発生的にできてきた政治系統なんだから、決して天皇親政をする必要はないんだと申してぶつかります。この幽谷の『正名論』というのは後に水戸激派、天皇親政を求めて倒幕を目指す連中の理論的根拠になってまいります。

 ここで一番大事なことは歴史研究から発して、歴史というものの一つの流れ、つまり意志というものを確認し、そこから今の政治を考えようと。どうすべきなのかという道理とは目先の利害ではなくて、全体の流れの中で無理なく一貫して説明可能なものこそが本当の道理であり、そういうことをきちんと把握するためには歴史を考えて、そこに流れる意志というものを確認しなければいけないんですよと、こういう考え方が支配的になっていることです。江戸の考え方というのはこれが支配的なんです。この流れの中で国学は『古事記伝』でどうのこうのと言い、儒教は『読史余論』であるとか『大日本史』でどうのこうのと言うわけですけれども、ここではっきり現れたのが国体です。つまり一貫する統一的意志というのは何なのかと言った時に、それを国体と初めて名付けたのが後期水戸学の総帥である会沢正志斎であります。

 

【国体論Ⅰ、大義】

 会沢は、今まで歴史を一生懸命書いてきたけれども『大日本史』もようやっと完成したし、我が国は何なのかという議論をそろそろきちんとまとめなきゃいけないなと考えて、国体という言葉を用いて説明するわけです。まず皇室の皇室たる所以として、こう申します。「帝王の恃んで以て四海を保ちて、久しく安けく長く治まり、天下動揺せざるところのものは、万民を畏服し、一世を把持するの謂にあらずして、億兆心を一にして、皆その上に親しみて離るるに忍びざるの実こそ、誠に恃むべきなり」と。つまり全国民が御上というのは有難いと心から思えることが統治者の統治すべき道であって、力で抑えるものではないんだよと申します。ここで大事なのは、理論が完成しているとか制度が云々とかではないということです。会沢が重視しているのは、全ての国民が感情的にそこから離れがたいという情的なところで、全国民が国家に対して帰属心を持てること。これこそが本当の統治のあり方であって、皇室はこれを持っているんですよと申します。

 で、会沢は日本史の中でも、天孫降臨で三種の神器を与えたところが一番大事なんだと申します。「昔者、天祖、肇めて鴻基を建てたまふや、位はすなはち天位、徳はすなはち天徳にして、以て天業を経綸し、細大のこと、一も天にあらざるものなし。徳を玉に比し、明を鏡に比し、威を剣に比して、天の仁を体し、天の明に則り、天の威を奮ひて、以て万邦に照臨したまへり。天下を以て皇孫に伝へたまふに迨んで、手づから三器を授けて、以て天位の信となし、以て天徳に象りて、天工に代り天職を治めしめ、然る後にこれを千万世に伝へたまふ」と。家康の天道の考え方がそのまま伝わっているんですね。つまり天照大神とか高天原の神々が世の中を造っていった仕事を我々人間に任せて、そうして人々が天に替わって仕事をすることで世の中をよくすると。要は人々の生業というのは天職なんですよということです。そして「入りては以てその祖に追孝し、出でては以て大祭に供奉するも、またおのおのその祖先の遺体を以て、祖先の事を行ふ」と。これも先ほど申しました天道の考え方と同じです。ずっーとお取り次ぎなんです。ご先祖様がやってきたことをずっーとやってゆくんですよと。我々は何のために働いているのか、旨いものを喰うためやいい着物を着るためではありませんよと。そうではなくて我々自身がやっている仕事というのは、実は天孫降臨の時のまま、世の中をどんどんどんどん生成させてゆこうという事業をやっているんですよと、こういうふうに説明するわけです。従って「治むるところの天職、代わるところの天工は、一として天祖に事ふる所以にあらざるものなし」と。我々がいきなり天皇陛下万歳と言ってどこかに突っ込んでゆくということではなくて、きちんと生活するきちんと生産するきちんと生きると、こういうことが実は天祖に仕えたてまつる道なんだよと申します。

 そういうことで日本民族というのは、少なくとも純粋な日本人であれば、祖先は皆この天祖のご計画に参加して天祖を助けまいらせてきたという歴史を持っているわけです。それはどういうふうに実感されるのかというと、ご先祖様をお祀りする時にご先祖様の話になりますが、そういった時にうちの祖先はこういうことをされていたと感じる。そうするとあの人は立派だったな、じゃあ自分もああいうふうになろうと。その人は何をやってたのか、天皇を助けてこうしたじゃないかと。だからご先祖様にきちんと孝を尽くすということは、すなわち日本国民としてきちんと仕事をすることであると、こういうふうになるわけです。こういう歴史を全国民が共有するんです。全国民が国家肇国の初めから天皇と仕事を共有していたんだということを、御家の歴史として持つよう求めます。従って大嘗祭の意味というのも当然変わってまいります。

 

【国体論Ⅱ、大嘗祭】

 「天皇の天に事へ先を祀り、大孝を申べ民命を重んずる」「天皇すでに天に事へ先を祀り、孝を申べ民を愛する所以の意」と。このように天皇というのも当然その天道の仕事、天工・天職というものを人々の生活に向けられているのであれば、大嘗祭で御祖神をお祀りすることによってきちんとご先祖様の教えに背かないようにしますよと誓うとはどういうことなのか。天皇であれば民の生活を守る、民の生活を平けくするということでぴったり一致してくるんだよということです。本来は、皇室の天祖を祀るという祭りは皇室内の祖先祭であります。しかしながら祖先神に対する孝を全うすることは国家の安寧を達成することと同義でありますから、国家全体の祀りとなるわけです。従って大嘗祭の執行というものは国家最高の典礼でありますが、同時に我が国の大義、何のために我々が生きているのかということを確認する意味を持っていると会沢は申します。つまり大嘗祭であっても大義確認の儀礼ということになるわけです。で、大嘗祭がそうであるように、日常の中の御祭りといったものにも意味がございます。

 

【国体論Ⅲ、祭の意味】

 「三種の神器を見るところのものは」云々「すなはちその遠きを追ひて孝を申べ、身を敬んで徳を修むること、また豈に已むことを得んや」と。天皇が天祖に対する祀りをするということは、その天祖の意を体そうとすることだから身を慎んで徳を修めるんだよと申します。で、群臣もそれを見ているわけです。「而して群臣の天孫を視るも、またなほ天祖を視るがごとく、その情の自然に発するもの、豈に已むを得んや」と。このように天皇が身を慎んで天祖の意を体そうと真剣になっていると、周りの人間は天祖の意と一枚の心になっている天皇というのを見て、ああ天祖の系統は今なお不変に続いているんだと心情的に実感するだろうと。そうして祖先が天祖に仕えまつったように自分達も天皇を助けまいらせようと、こういうふうに心情的な忠誠心が起こってくると申します。

 で、例えば「古者、京畿及び諸国の名祠・大社に祭るところの神は、皆嘗て天祖・天孫を佐けて、よく大功を成せしものにして、山川の百神は、民物を鎮め風雨を起して、天神の功を助けし所以にあらざるものなきなり」と。このように祀りを通じて天皇は天祖の意を体して天祖と一体になると、かくて天皇は大義の象徴、この歴史の持っている意味の象徴となり、これが未だに続いているんだと万民に心情的に働きかける。ああ天皇陛下がいらっしゃる、いるだけではなくてそこに意味が、天祖が肇国の初めに持たれていた意志というものが未だに継続しているんだということを天皇を通じて見るわけです。また自然神といっても何で祀るのか、この大義というものに功績があったからだと。従ってただ山を祀るというのも、何かこの山は高いなあとか蛇が住んでいるとか、そんなことで祀るのではないんだと。この山が神話の中で天皇の創業にどう働きかけてどういう意味があったのか、その意味を祀るんだと申します。つまり大義というものにより全ての存在を意味づけて、神社に祀るというのもその中で意味があるから祀るんだということです。従って人々が神社に参拝するというのも吉凶禍福を祈るものではないと言います。つまり日常の中でその神社に祀られている神様にお祈りすることにより、その方々がいかに偉大であったのかということを思い返す。そしてそれに自分も恥じないようにしようと、会沢はこの恥じないようにしようということを非常に重視しますが、よし自分も今日の生活できちんとやろうと確認して心を引き締めて、きちんと生活することのために神社祭祀はあるんだということです。

 で、そういう会沢からすれば、ものというもの全てに意味がなければいけないわけです。『下学邇言』には「徒に其の形状あるを知りて、精神あるを知らず」とあります。つまり物理学であるとか化学といったものも確かに運用できるしやらなきゃいけない。実際に昔から日本人は、蘭学なんかが出てくる前に鉄砲だって受け入れたし、そういう物理的なもの化学的なものは何でもやったわけです。しかしながら日本人はずっーとそれに、じゃあこの鉄砲というのは何に使うのか、これは何に使うのかということを考えて、その目的意識の本に運用してきたから成り立っているんだと。しかしながら蘭学というのは、ああだこうだと言いながら分析しているけれども、そんな何のためにという意識が欠けているような学問だと逆に敵に利用されると、夷狄なんてのが来たらば逆にそれを奪われてしまうよと申します。つまり外国の物は素晴らしい素晴らしいと、逆に日本なんて駄目だ駄目だと言って一所懸命向こうのものを勉強すると一見学問は進むかもしれないけれど、外国が来たら敵に内通して日本もああいう国みたいになればいいなんて言って寝返る奴が出てくるんだと。こういうふうに精神というものがなければなんぼ学問したって無駄なんだということが、「徒に其の形状あるを知りて、精神あるを知らず」という言葉に表れているわけであります。では、こうした会沢が希求するのは何なのかということですが、これが水戸学の最大の特徴とも言える忠孝一如という考え方であります。それはこういうことです。

 

【国体論Ⅳ、忠孝一如】

 天皇が天祖を祀ること、これは孝です。そして天祖の業を継承すること、それは万民の生活を安んずることですから、恩となります。これはかつて天皇と創業を共にした祖先を持つ日本人にとってはこうなります。祖先を祀ること、これは孝で同じです。そして祖先の業を継承すること、今度はそれは天皇を助けまいらせることですから、忠となります。このように孝というものを通じて、天皇はますます恩を民に施し、民も祖先から業を継ぐということでますます忠を尽くすんですが、リアルに今も恩を受けることによりよしやろうという気持ちになって、恩と忠とがどんどん増幅してゆくんだよと、こういう言い方をします。これは何でこういうことができるのか、日本は何故忠孝の国なのかということになると、恩義と忠節とは祖先が共に行ってきた歴史への回顧なんですね。つまり天皇家が断絶してしまって他に王がばかすか立っていれば、当然こういった歴史の共有はできません。ある時は俺はあの王様の遺臣だとか、またある時は俺はこの王様なんか好きじゃないということになって、忠孝の経路というものが構成されません。つまり俺はあの天皇なんて担いでいないんだから、孝というならむしろご先祖様はあの天皇を倒そうと思っていたんだから、ご先祖様の遺業を達成するためにはあの系統を倒さなきゃいけないと、こういうふうになってしまう。しかしながら日本は万世一系でありますから、この孝というものを行えば全国民がその祖先の業を継承し、忠によってますます頑張ろうとなるはずである。だから忠孝一如だとなるわけです。

 従って「古より皇子・皇孫、名賢・大徳の、その功烈後に垂れ、忠孝世に顕るる者」をこそ神社では祀るのであって、分けの分からない何とかの仏がどうだとかというものは祀る必要はないんです。会沢はああいうものは全部破壊しろと言います。そうではなくてきちんと然るべき人々の徳というものを祀って「天下をして、忠孝の心と、祖を念ひ遠きを追ふの誠とを油然として倶に生」ずること。すなわち国民がそれぞれ神社に参拝することで先人の精神に相対して、自己が何のために存在するのかを確認し、目的意識を明確に持って生業に取り組むことが神道祭祀の本義であると申します。忠孝一如と神道祭祀ははっきりと結びつくと、こうなってくるわけであります。これがいわゆる祭政一致論です。近代の日本人は祭政一致というと何か占いをやって政治の方針を決めるとか、祭祀というものをただ単に重視するんだという言い方をしますが、そうではない。水戸学で定義された祭というのは我が国に一貫して流れる意味、大義の確認なんです。その大義に則って何をすべきか判断するというふうに政は行われなければ、支離滅裂になってしまいますよと。これが祭政一致という考え方であって、祭天の古俗みたいな物の考え方をするわけではないんです。そういった国柄において、では会沢は現代というのをどう見ていたのかということですが、それが東照宮であります。

 

【国体論Ⅴ、東照宮】

 「東照宮踵いで興り、専ら忠孝を以て基を立て」と。この忠孝というのは先ほど申し上げた忠孝一如の考え方です。家康という人はこの忠孝一如の国柄というのが、藤原氏以来ずっーと乱れつづけていたのを再興したんだと申します。ですから「東照宮、忠孝を以て基を立てしものは、天祖の彝訓を垂れたまふ所以なり」云々と書くわけです。それはどういうことなのかと言いますと「神聖の天下を経綸したまひし所以の意に原づきて、土地を経し人民を制し、君臣の義を正し、父子の親を敦くし、天下を範囲して、以て一身となさば、豈に甚だなし難からんや」と。こういうことを行ったのが東照宮家康公なんだよと言います。で、家康公はその忠孝の大義を以てずっとやってきたから「故に天下弱しといへども、通邑・大都、武士の聚処する所は、すなはちまた未だその弱たるを見ざるなり」と。つまり家康公が、武士という者の意味は大義を保有して防衛する為の存在であるとしたから、どんな地域でも武士という者がいるところは決して弱くなることはないんだよということです。そうして東照神君を、天祖の大義を闡明しこれに基づいて人を用いたとして敬慕し、だから東照宮と言うんだよと言って、覇道ではない。むしろ東照宮こそが本当にこの大義を恢復された方なんだから、師匠である藤田幽谷先生は間違っておるということで修正いたします。さらに会沢は国史に鑑みると天祖以来の国政は封建が主であり、郡県というのは律令時代に人心が乱れてどうしよもなくなったから止むを得ず取り上げただけであって、律令体制なんていうものは方便にすぎないと。本来は封建であり、それを復活させたのが家康だとも言っております。で、その家康が作った大政委任というのが立派なんだよと会沢は申します。それはこういうことです。

 

【国体論Ⅵ、大政委任論】

 人というのは祖先に孝を尽くすことによって、藩主に忠を尽くす。藩主も同じようにの名君に孝を尽くすことによって、将軍に忠を尽くす。将軍は東照宮と歴代将軍に孝を尽くすことによって、天皇に忠を尽くすと。このように多重的に重なった各階層がそれぞれ目に見える範囲の立派な人に対して思いを致し身を正していくことによって、忠義を尽くしてきちんと生活で働いていく。こういうことで国家が心情的に一つになる。会沢が大事にするのは心情なんです。見たこともない天皇に忠義を尽くせといきなり言われても、絶対分かるわけがないんだと。そうではなくてきちんと目に見える人に対して忠義を積み重ねてゆくことで、天皇に向かって全てがが進んでゆくんだと申します。これが大政委任という考え方です。そういう会沢にとってやってはいけない学問というのがあります。これが異端邪説と言われるものです。

 

【国体論Ⅶ、異端邪説】

 「何をか邪説の害と謂ふ。昔者、神聖すでに神道を以て教を設けて、民心を緝収したまふ所以のものは、専ら一に出で、固より成規あり。而して天に事へ先を祀るの意、これを後世に伝ふれば、民は本に報い始めに反るの義を知れり」と。この報本反始という考え方は会沢に一貫してあるんですが、これが忠孝の基になっている実感です。これはこう考えなきゃいけないではなくて、常にこう考えるであろうという実感なんです。「しかるに異端邪説、相踵いで作り」云々「私かに淫祠を奉じ、福を祈り幸を徼むるを知りて、天に事へ先を祀るの義を知らず」と。仏教が入ってきたことは廐戸、つまり聖徳太子が起こした大逆であると会沢は断罪するんですが、それによって現世利益を求める悪風が入ってきたと申します。「すなはちその神に事ふるところのものは、すでに祖宗の本に報い始めに反る所以の意にあらず」と。だから仏教が入ってくることによって神道まで堕落しかけたんだと申します。つまり仏教というのは、来世の話とか現世利益を説いて生活から遊離させ個人というものを誕生させますが、天道の考え方にしても幽谷や会沢の考え方にしても、私というのは存在しないんです。自分は必ず親に対しては子であり、妻に対しては夫であり、子供に対しては親である。その関係性の中で自分を考えて、それを繋いでいくということが大事なんだと言います。しかしながら仏教だと、来世のことが怖いから喜捨して仏像を作るだとか言って生活から離れていく。そうすると結局大事なのはあの世に行って自分がどうなるかという個人的な考え方になる。そういう風潮が広まると社会がばらばらになり、大義を感情的に実感不能になってしまうということであります。

 また先ほど申し上げた蘭学、これも物をばらばらにして自分の快楽とかを追求してしまうから駄目だと、意味というのを考えないで国を売るような奴が出てくるから異端邪説だと申します。国学に関しては、禍津日だとか直毘霊だとか分けの分からないことを言っておるが、実はあれは仏教の説を翻訳したに過ぎないと。こういう分けであるから本居というのは「人にして人の道を知らず」「仏の天堂・地獄を設けて、冥福陰禍を論ずる方便に異ならず」「本文を外に推し料りに作り構えてこちたく言挙せば、古書の意をば失ひて、天竺・西洋の意に流るると知るべし」「人倫は天地自然に備はりたる道なるに、本居は人倫と云ふ事を知らざる故、自からなる理にあらずと思へるなり」云々というふうに申します。

 

【国体論Ⅷ、政教一致】

 では会沢は儒教というのが何で立派なんだと言うかというと「聖人の人を言ふや、人道のみ、其の天を言ふや、天道のみ」云々「夫れ古人の辞は寡し」と。つまり我々は人道、人としての道だけを説けばいいのであって、分けの分からないマジカルなあの世だとか見たこともない天上の世界だとか、そういうことを説いちゃいけないんだと。だから古の人というのは言葉が少なかったんだと申します。「其の言にして人事に益なければ、君子は言はざるなり」「夫れ孔子の仁を言ふや、皆示すに仁を為すの方を以てして、仁の字義を説かず」と。異端邪説のような観念論はしないんです。「夫子の志業は実行に在りて、而して口舌に在らざるや亦明らけし」と。ひたすら生活で何ができるのか、何を実践すべきかだけ考えなさいと申します。この実践というのは当然その大義というものを確認するためであり、きちんと日本の社会の中で生きてゆけば、この大義を実感できるということです。

 つまり会沢の言う国体とは、皆が歴史というものを共有し、そして親を思ううちに親がその歴史において果たした役割を思い、それを継承しようという心から覚悟をすることで日本国民が一体化することなんです。そして生活の中で忠恕を行えと申します。つまり人に対して真心を押し及ぼしてゆくこと、相手にとっていいなと思うことを押し及ぼしてゆくこと、これを実践する。そうして社会と関わる中で、我が国の道が絶対に正しいのであると心情的に確信する。これは自ら進んで孔孟の道へと進むことである。つまり修己治人、己を修めて人を治めるということは、国体の観点から政治としても立派に機能するんですよと申します。昔から儒者というのは自分の身を修めてばかりいて政治のことを言わないと言うけれど、そうではない。自分の身を修めるということは、すなわち生活における実践である。実践をするということは、何某かの社会的な役割を果たしてゆくことである。つまりこの学をきちんと皆が修めれば、老中は老中らしく奉行は奉行らしく百姓は百姓らしく、きちんとその中で実践して工夫して社会を発展させる。これこそが本当の政治に対する教である。政教分離ではなくて政教一致なんです。これを実践政治学として提出したのが、会沢の国体です。ただ単に国の体質だとか制度だとかということではなくて、この歴史における大義というものを皆が共有して一体化することが国体なのであります。

 で、そういった会沢からすると君子というのが大事になりまして、我々はすぐ君子というと何か立派な人と考えますが、君子というのは普通の人であると言います。何かやましいことをやって俺も人間だからと、こういうのは禽獣だと切って捨てます。そうではなくて君子というのが普通の人なんです。「君子の善を楽しむ事は、少しく書を読みたる者は誰も知りたる事なり。身を苦しめて善をすると云ふは小人なり」というように、道徳というとすぐに何か自分の身を規制して苦しいことをやると思われますけれど、そうではないんです。親に対して忠恕を尽くす、親が喜んでくれた、嬉しいことじゃないかと。ご先祖様に恥じないように生きようとする、きちんとできた、嬉しいことじゃないかと。このように水戸学で代表されるような儒教的な意味での道徳、江戸の通念としての道徳というのは、近代におけるモラルのように自分を拘束して苦しめるものではなくて、むしろ楽しいものであり、それをやることによってある種の実感が得られる。これがあったんです。それで会沢は、そうすることによって我が国の道というのが心情的に確認できるでしょと申します。もし修養が苦しいものだったら、修養しなさいほら分かるだろと言っても誰も分からないんです。だけど修養というのをやれば日常の中で自分を実感できる、それは楽しいんだと。だからこそ皆さんきちんと修養して思うでしょ、それが国体というものの中で日本がいかに素晴らしいかということを実感することですよと申します。こういうふうに国体論と修養論が結びつく基盤というのは、修養というものの根本的なとらえ方にあったということができます。で、会沢はその国体論というのを当然ただ言って終わらせるつもりはないわけでありまして、政治的な議論をする際にもこれを根本として行えと申します。それが攘夷論であります。

 

【攘夷論】

 この攘夷論で会沢はまず、西洋人というのは国はばらばらであってもアジア人と相対した時には一致結束してくるから用心しろと申します。そうして次に直接的攘夷論に対しては、我が国は二百年も戦争してないんだから今やったって勝てるわけないと言ってこれを退けます。そして富国強兵に関しても「今、虜は民心の主なきに乗じ、陰かに辺民を誘い、暗にこれが心を移さんとす。民心一たび移らば、すなはち未だ戦はずして、天下すでに夷虜の有とならん」と。つまり先程お話しました蘭学の弊害のように、ただ単に富国強兵をやっても今の国民は堕落していて、変なのになると向こうの方が素晴らしいなんていうおかしなのが出ていると。だから富国強兵をただやればいいというものではないと言って退けます。さらに風俗に関しましては「日また一日、坐して虜謀をして稔熟し、手を拱きて敗を待たしむるものは、これ内陰かに懼るるところありて、敢えて断ぜざるに坐するが故なり」と。つまり国民がああでもないこうでもないと、ここで会沢は色々な当時の言論を引いているんですが、一つはこういったものは外交で解決すべきであるとか、或いは外人というのだって話せば分かるとか、或いはこれは商取引目的であるとか、或いはこれは向こうの国内の方が不安だからこっちに来ているだけだとか、まあ今でしたら尖閣みたいなことを一生懸命言っているわけです。それに対して会沢というのは馬鹿じゃないかと、相手がどうとかじゃなくてお前等がどうするか考えて、腹を決めるということなんだよと申しまして風俗を批判します。この風俗批判と富国強兵批判というのは表裏一体のものであります。

 さらに会沢はそこから派生して、西洋が今来ているのは昔蒙古が来たのとは違うんだと、文化侵略を行おうとしているんだよと申します。それはこういうことです。「しかるに耳食の徒、西夷誇張の説を謬り聴き、盛んにこれを称揚し、或は書を著して梓に上し、夷を以て夏を変ぜんと欲する者あるに至る」と。つまり我々は明治になり文明開化になってから、そういった連中が出てきたと思っていますけれども、当時からして、夷狄というのは船もあるし何たらもあって向こうの文化というのは優れているんだから、日本もそろそろ殿様へえへえなんて言ってるんじゃなくて、西洋みたいな物の考え方をしなきゃいけないと言っている。どっからそういう知見を得ているのかというと、外国の書物をただ翻訳文化として読んで、すげえやすげえやと言ってるうちにだんだんそういうふうになっている。何でそうなるのかというと、向こうの本の書き方だとか説明の仕方で、鉄道ができるのは西洋に共和国があるからだ、船ができのはキリスト教があるからだ、こういう物の説き方をしてるんだと。だから阿呆みたいにそれを読んですげえやすげえやと言ってるうちに、ああ向こうの国みたいになりたいなとなってくるんだと会沢は申します。ですので攘夷ということを考えた時に、最もまずなすべきことは富国強兵でも戦端を開くことでも何でもない、伐謀である。謀を伐てと申します。

 「君臣義あり、父子親あり、然る後に百礼すなはち興る。ここにおいてか夫婦の別を謹み、長幼の序を順にし、朋友の交を信にして、民をして出入相友とし、守望相助け、疾病相扶持して、皆その上に親しみ、その長に死せしむれば、すなはち百の異端ありといへども、その心を移す能はず。而して黠虜の祠宇を焚燬して胡神を瞻礼し、蠢愚を煽惑して、以てその逆焔を肆にする者は、得てその術を施すことなけん。所謂、上兵は謀を伐つものにして、実に万世の長策なり」と。このように攘夷ということを行うのであれば、向こうがしかけてきている文化侵略に対して、まず思想戦でこちらがきちんと我が国の道を闡明にすることだと申します。先ほどの会沢の国体論から言えば、ただ単に刀を差さなきゃいけないとか丁髷結わなきゃいけないとか、そんなものは国体ではないんですね。会沢に言わせれば、別にそんなものは廃止するなら廃止するでいいんです。そうではなくて一番大事なことは、大義に則って今自分が何をなすべきかということを国民に把握させる。そうすればそれぞれが船を造ったり何なりして、どんどんどんどん物理的にも対処可能だろうと。ここに会沢の自信が溢れているんです。

 つまり明治以降の日本では、船ができたとか鉄道ができたといったことは向こうの文化が優れているからだと、こういう前提で話が進みますが、会沢に言わせれば、船だとか鉄道だとか何ていうのは確かに大変かも知れないけれどできるだろうと。そういった物理的なものというのは負けているけれども、しかしながら思想というものでは、どんな事態が来てもこの国体論を以て相向かえば十分対処は可能だし、西洋以上の効果を上げることができると。向こうがそう来るならそれを全部丸呑みにし、物に対する意味づけを日本精神の文脈でした上で、逆に向こうの武器で向こうをぶん殴ってしまえばいいとなるわけです。会沢というのは全然びびらないんですね。おおそう来たかと、こういう対応をするわけです。そうして会沢は、この国体論から俺は現代に対してこういうことが言えると言って、次の項目を上げます。

 まず内政を修めるということでは、士風を興す、これは道義教育です。奢侈奢靡を禁じる、これは戦略物資の統制です。万民を安んずる、これは治安です。賢才を挙ぐる、これは人材の選抜です。そうして武辺を誇り統制に服さない兵を解雇し、大規模戦闘が可能な近代戦ドクトリンを開発して統帥を確立する。さらに日本にとって米というのを特別重んじることは、これは大義を闡明にするためにも必要だからということで、貨幣と物資と米の三分法の経済理論というのを出します。さらに守備を頒つとか何とかということを言うわけですけれども、特徴的なのは海上機動戦闘です。つまりお台場に大砲据えてばかすかやるのではなくて、船を造って艦隊で決戦するんだと。また全国を兵站担当地区と戦闘担当地区とに編成変えをして、日本全土を覆う大兵站線を獲得する。さらに日本国内にある資源というのは限られているのだから、夷狄に対抗するためには通商なり戦争なりを通して戦略物資をこちらから獲得しにかからなきゃいけないということで、国民総予備体制というものを提唱します。

 実は家康が政治から軍事に即スライドできる制度を作っていたことが大事なのはこの点であって、立原翠軒にしても会沢正志斎にしても、そのことが頭にあるわけです。ですから文官と武官とを分けなければいけないという考え方がないんです。そうではなくて思想戦というものを行って、さらに我が国は政治家と軍人とを全国民が兼ね備えた国としてやると、支那や朝鮮とは違うんだという考え方です。すでに会沢は、当時の戦争を人口・物資・産業・思想・風俗・情報の全てを投入しなければ生き残れない国家総力戦として考えております。日本を高度国防国家、会沢の言い方でいうと軍国日本として建設しなければいけないと申します。しかしながら軍国日本と言ったからといって、軍人だけがやればいいという考えではなくて、むしろ武士というのは軍人であり政治家であり君子であると考えた上で申していることは言うまでもありません。

 

【エピローグ】

 従って会沢の企図する所は、目先の攘夷決行ではなく天皇親政でもありません。彼の恐れるところとは、国家の分裂であります。故に彼は革新的な内容を含む『新論』の発表を、実はこれは文政八年(1825年)の異国戦打ち払い令の時点で完成していたのですが、国民が本当に危機感を持った時に出さないと意味がないということから、安政四年(1857年)まで控えます。彼の時勢判断というのは実に正しくて、この『新論』を手にした佐藤一齋は非常に感動しまして、その系譜を伝って山田方谷だとか佐久間象山だとかに伝わり、その幕政改革・藩政改革は基本的に『新論』がベースになってゆきます。吉田松陰の論敵である山県太華などは「本藩にても近来水府の学を信ずる者間々之れあり」と言っております。このように思想戦、或いは国家総力戦というものを考えた国家大改造計画というのも、そして何で幕末期に日本人が西洋のものをこんなに積極的に摂取できたのかというのも、実はこの『新論』から始まっているんです。会沢に言わせれば、これは夷狄のものだから必要ないと言う必要はないんだという議論ですから、方谷にしても象山にしても別にどんどん取りゃあいいじゃんと言って取ってゆくんです。そうして直接的攘夷論、異人と見たらぶっ殺してしまうやっちまえ攘夷ですが、そういう攘夷論が破綻した後に、やっぱり会沢先生の言う通りだったんだとなって受け入れられます。なお会沢の攘夷論のことを、直接的攘夷論と区別して大攘夷論とも言っております。

 そうした熟慮を以て着々と手を打ってきた会沢にとって、攘夷だとか天皇親政だとか軽々に言い出す連中は全て国賊なわけです。従って攘夷決行を唱える勤皇派に対しては「小壮の論は、義に当たりては国家の存亡は論ずるに足らず、唯其義を行ふべしなどと唱るものもあらんか、天下は天下の天下にして一人の天下にあらず。然るに臣下の身として、天下を一己の私物の如く軽々しく是を一搏に抛んとするは、臣子の心と云ふべからず」と。或いは勅諚を通じて幕政に関与しようとする者に対しては「何之思慮もなく御伝達を唱候へ共是迚も」云々「客気之ものは多分此類之空論に御坐候」と。或いは違法な密勅降下を企んだ学習院の公家に対しては「主謀之者は一己之見込候処のみ張込、患害にも勅意にも不心付軽挙妄動にて天下を乱り国家を覆し候にも不弁」というふうに猛攻撃し、これらの連中を全て徹底弾圧するように幕府に上申します。また大政委任の原則を破られた孝明帝に対しても「万乗之尊に被為在下情通じ不申、古今之大勢を御明察不被在候故、治体に於ては如何に奉存候」と申しております。で、勿論これは党派心でやっていたわけではなくて、申し上げましたような国体論、或いは攘夷論のもとで批判をしておるわけです。

 しかしながらその所論が試されようとしていた文久三年(1863年)に、会沢は八十二才で死去します。この後に西郷隆盛が意図的に大政委任のところを天皇親政とすり替えて、倒幕を行うわけです。攘夷のための倒幕、大攘夷のための倒幕という我々が今信じている歴史観です。つまり幕府は何もできなくて旧態依然としていたから倒幕をした、これで本当に文明を受け入れる態勢ができましたよという明治政府によって作られた歴史観です。会沢の死後、こういったことが行われましたということです。ここまでを通して見て、まず国史というものから見た江戸の価値観・国体論というものをご了解いただければと思います。

「国史における明治の位置」明治編

◇主催:皇室と日本を考える、於文京区勤労福祉会館、2010年11月
【冒頭・江戸の部の再確認】

 では明治の部を始めます。前提として、江戸の部での説明を再確認しておきます。

 国体観、いわゆる天道・王道・国体といった議論の部分と、それらを実感するための日常における忠恕の実践の関係です。当時は忠恕を生活で実践することによって国体は実感できるのだと考えていました。また、攘夷論が先ではなくて国体論が先で、物を見る基準を国体論で定め、どんな問題でも適応可能だと表明した上で、夷狄が来たから攘夷論だとなったこと、つまりこれを切り離して考えることが可能だということの2点です。

 

【明治の国体観、福沢の文明論の概略からの解読】

 さて、明治の国体観として、それを真正面から説き、しかも一番流布した思想家ということで福沢諭吉の「文明論の概略」を取り上げてみたいと思います。明治八年のこの書で福沢は、疑似弁証法の使用を宣言します。そして慶應義塾で研究、実践しているディベート、つまり議論のための議論、議論に打ち勝つための方法を「文明論の概略」で使用したと言っております。また、文章による説得の重視、これを福沢は多事争論と言い同じ意味で使っていた筑紫哲也などを思い出すわけですけれども、これを訴えます。

 まず福沢は国体論と文明論は一見対立するよう見えるけれど、そうではないとします。文明論とは「天下衆人の精神発達を一体に集めて、その一体の発達を論ずるものなり」、つまり国民全体の総和としての精神がどのように進歩してゆくのかということと説明します。それに対して、国体とは「世間の議論は姑く擱き、先ず余輩の知る所を以てこれを説かん」「西洋の語にナショナリチと名るもの、これなり」「一種の人民、共に世態の沿革を経て懐古の情を同うする者、即これなり」、つまり先行的に言われている国体論とは異なる国体観として、〝ナショナリチ〟を持ち出し、それを人種・宗旨・言語など自分たちは同じ国民だと認識できるものと説明し、これが国体だと言います。従って極端な例としてスイスを出し、言語も人種も宗旨も全部別々だけれども自分たちはスイス国だと思っている様態を国体だとします。これは江戸の認識とは随分変わっています。福沢の説だと決して一民族一言語一宗派である必要はないのです。社会契約説的な、つまり我々が国家を造る上で、国民と政府との間に結ばれたある種の契約関係が国体だということです。では福沢が国体をこういうふうに言う理由は何か。「結局、国体の存亡はその国人の政権を失ふと失はざるとにあるものなり」、つまり国体というのは、結局同じ国籍を保有する者による政権が持続していること、これが国体だと福沢は考えているためです。

 

【江戸の国体観との対立】

 福沢は従来の国体論の中に含まれていた概念を次々に分解していきます。その一つが政統です。水戸学や『読史余論』で論じていたような〝勢い〟だとか〝徳の継承〟などは国体ではなく政統だとし、それは同国人による内部の政権交代であり、価値はないとします。さらに国体論を論じる上で、会沢などが顕著ですけれども、絶対に不可欠な皇室の血統の重要性、つまり天皇というのを福沢は国体から切り離します。

 国体・政統・血統の関係はどのようなものが理想か。福沢は「右の如く国体と政統と血統とは一々別のものにて、血統を改めざれども政統を改ることあり」、「英政の沿革(中略)これなり」として、イギリスなどそれらが分かれている国を文明の模範として説きます。

 イギリスに対して我が国は「日本にては開闢の初より国体を改たることなし」、「国君の血統もまた連綿として絶たることなし。ただ政統に至てはしばしば大に変革あり」「よく事理を糺してこれを論ずれば、その皇統の連綿たるは、国体を失はざりし徴候といふべきものなり。これを人身に譬へば、国体はなほ身体の如く、皇統はなほ眼の如し」「古今の通論を聞くに、我邦を、金甌無欠万国に絶すと称して、意気揚々たるが如し」、「その万国に絶するとは、ただ皇統の連綿たるを自負するものか。皇統をして連綿たらしむるは難きにあらず」「彼の金甌無欠とは、開闢以来国体を全うして、外人に政権を奪はれたることなきの一事に在るのみ」として、あくまで日本は外国に支配されたことがなく無干渉であっただけで、その中で国体と天皇との関係は、無干渉という事実があるから皇統が連綿なのであって、皇統が連綿だから日本国というのが連綿と続いてきたわけではないとします。結局、皇室というのは日本人が外国に政権を奪われなかったから続いているだけであって、皇室が潰れても、皇統が途絶えても、日本国が外人に占拠されさえしなければ国体は続いていると主張します。従って「楠氏はただ血統を争ふにあらず、その実は政統を争ふて、天下の政権を天子に帰せんとし、難を先にして易を後にしたる者なり」、つまり政権、福沢の言う政統というものの持続が一番難しい。皇統は権力さえ握ってしまえば、天皇の生殺与奪はすべて自分次第だとするのです。例えば、楠木正成は難しい政統を先にして一番楽な皇統を後回しにしたとしています。従って「文明論の概略」では尊氏がいいとか大楠公が悪いとか、他にも誰がいいとか誰は逆臣だとか言っているけれど、それらは好みの問題であって、文明には全く無関係であるし、文明の価値観からすると実はみんな忠臣でも賊子でもなくて権力者の権力内闘争に過ぎないと断じています。

 そして福沢はこの国体、政権の持続を守るためには「政権を失はざらんとするには、人民の智力を進めざるべからず」と議論を進めていきます。ここで福沢は〝人民〟をキーワードにします。「智力発生の道に於て第一着の急須は、古習の惑溺を一掃して西洋に行はるる文明の精神を取るにあり」「皇統の連綿を持続するが如きは易中の易のみ」、つまり先程も触れた通り、皇統の連続性など権力さえ握ってしまえば何とでもなるので、西洋に行われている文明の精神、これを福沢は〝智〟と呼んでいます、を取ることを重要視します。そして、国体を守るために、古習の惑溺、つまり儒教・国学・神道そして家庭などを解体し、個人主義へ導こうと志向します。ここで見るように、福沢は孝というものを最も嫌います。また、祖先祭祀というものも非常に嫌がります。個人を生むためには、孝は否定しなければなりませんし、忠臣義士の物語、武人の伝説なども全て破棄しなければいけないのです。なぜなら孝は、親・子・夫・妻など社会的立場を生み、忠臣義士が忠義を尽くしたというのも個人主義の発生を防ぐからです。つまり、ここで言う陋習とは、実は我々が『日本には歴史的にこういう良い面もあったよね』と振り返るもの全てといってよく、福沢はこれを西洋の文明、文明というのは精神発達史とも言えますが、を取るために一度全部捨てなければならないと主張します。

 ここで、福沢は発達という言葉を進歩と同義に使用します。従って彼がここで行っているのは万古不変ととらえられている国体の意味を政権の持続とし、これをあくまでも形而下の存在にすることで、それが衆心の進歩という形而上の存在、つまり西洋の文明とぶつかってしまわないように国体をあえて形而下の存在にする概念操作です。つまり、国体を進歩という形而上の存在によってどうとでもなると主張することが福沢の国体論の一番の目的です。福沢からすれば、国体が会沢の言うような国策の先後軽重を意味付けして方向付けるような思想内容を持ち、それが西洋の近代精神と衝突してしまうことを回避しなければならない。従ってあえて天皇をも、そんなものは別に権力者が殺すも生かすも自由だと定義することによって、日本の思想営為や精神性を一度全て否定し、日本の全てを進歩の中に丸ごと投入して文明というものに改造しようとしていたわけです。

 故に「幸いにして嘉永中ペルリ渡来の事あり。これを改革の好機会となす」という発言が出てくるのです。この発言が出てきた時期はペリーが来てから五十年もたってないのです。ペリー来航時には、やれ攘夷だとか国体がどうだとか、会沢は思想戦だとまで言っているわけです。しかし福沢はそのような立場を取らない。むしろ逆側の人間ですから「ペルリが来たのは改革の好機会、文明が来たんだ」というわけです。この発想というのは単に福沢だけのものではありませんで、文明開化原理主義者の加藤弘之は勿論、折衷派といえる西周、儒教の重要性をある程度認める西村茂樹など、文明開化に際して西洋をどのくらい受容するかにある程度のぶれがあるわけですが、明治のどの思想家にも全て共有されている。そんな中、福沢は先程も出てきましたが、西洋に行われている文明の精神、つまり〝智〟の習得ということを言いました。人民の智力が発達するということを徳と智を、私徳・公徳・私智・公智という四段階に分けて説明します。

 

【私徳・公徳・私智・公智】

 まず私徳とは「貞実、潔白、謙遜、律儀等の如き」「皆外物に関係なきものなり」「修身といひ、慎独といひ、皆外物に関係なきものなり」として、孔子・孟子・歴代の儒学者、儒教的な修養というのは結局瞑想やあるいは経書を読み内省するだけの外に出ない学問で、社会と関係しない学問だから私徳だと言います。それに対して公徳とは「廉恥、公平、正中、勇強等の如き、外物に接して人間上の交際上に見はるる所の働」、つまり社会的な活動を通して何かを成し遂げてゆくということだと言います。次に私智とは「物の理を究めてこれに応ずるの働」として、たとえば元素はいくつあって原子の構造は…などの科学のようなものです。それに対して福沢が一番大事にするところで聡明英知とも表現する公智とは「人事の軽重大小を分別し、軽小を後にして重大を先にし、その時節と場所とを察するの働」、つまり先程の基礎科学みたいなものではなくそれを社会的にどう運用するのかということを考えることだとします。

 先程も確認しましたが、会沢は修己知人という意志を持って取り組んでいれば、例えば自分が科学者だったら何のために研究するのかという自覚があるから、当然それがきちんと国策に合致したものになると論じていました。しかし、福沢はあえて会沢のその意識を一番最下層の私徳に置き、儒教的な国家・社会のために云々というのではなくて、むしろ文明という普遍的なもの汎人類的なものの中でどう考えるのかと主張するために公智というものを持ち出していまるのです。

 福沢はその公智を持った人間の代表例がジョン・ホワルドだと言っています。特段有名人ではなく、牢獄の環境を改善した程度しか伝記が残っていない人物ですが、このホワルドを評し「ジョン・ホワルドが数万の人を救ふて遂に身を殺したるも」「ホワルドが聡明叡智の働に由てその私徳を大に用ひ」「ホワルドは公私両ながらこれを有する者なり」「ホワルドの為人は、これを評して、ただ徳行の君子とのみいふべからず。智徳兼備して、然もその聡明の智力は、古今に絶したる人物といふべし」としています。つまりホワルドは監獄の改善運動に参加して結局体を壊して死んでしまった。囚人を可哀相だと思ったのは所詮私徳だが、しかしながらそれによって監獄という社会的に大きな仕組みに対して働きかけて変革したのは立派だと言っています。

 では福沢が、江戸時代に元々の徳義というものを中心基盤として全てを包み込んでいこうと考えていたものをあえて私徳と押しとどめ、智と切り離した意図というのはどこにあるのか。これが実は福沢の説く功利主義と唯物思想に含まれております。これを見てゆきたいと思います。

 

【福沢の意図とは】

 福沢は知恵というものをあくまで物理的に検証可能なもの、あるいは「智術有形の試験法といふ」「これ即ち世に偽君子多くして偽智者少なき所以なり」とします。従って「孟子は浩然の気といひ、宋儒の説には一旦豁然として通ずるといひ」としたものも「治国経済の門には遽に達すべからず」と主張し、「徳の分量はたとひ我国に不足することあるも、焦眉の急須にはあらざること明なり」、つまり智の発達と徳というのは無関係であるとします。そして人間の心というのは「人心の賤しむべき、かくの如く、規則の無情なる、かくの如し」、つまり全て利害や自我といったもので構成されているから、規則というもので規制する必要があるとしています。福沢からすると修養によって人間に向上されると困る。そうではなく人間が自我をむき出しにして自己主張しなければ個人主義が生まれないからです。

 自己主張を助長していけば、人心が卑しくなり、そうして初めて摩擦が起こり制度・規則ができる。これらによって約束・公理を作っていくと考えています。そういった福沢からすれば「都て世の政府は、ただ便利のために設けたるものなり」「今日の有様にて世の文明を進るの具は、規則を除きて他に方便あることなし」、つまり政府というのはサービス機関で、修養だとか人物育成なんてことを考えてはいけない。摩擦をどんどん起こしていって物理的な進歩を促進していくべきだと考えるのは自然でしょう。

 福沢がそこまで自信を持って言えるのはなぜか。「実際に就いて詮索する法を、西洋の語にてスタチスチクと名く。この法は、人間の事業を察してその利害得失を明らかにするため欠くべからざるものにして」、つまり統計学というものがこの時代に出てくるのですが、経済活動における統計学の効用を見た福沢は非常に大きい期待を寄せます。教育においても政治においても法律においても全て統計学を用いれば物理的に人間の営為が計測可能で、さらには心も計測可能だと考えます。さらに「譬へば、英国にて、毎年婚姻する者の数は、穀物の価に従ひ」「父母の命に従て整ふべからず、媒酌の能弁といへども、結縁の神霊といへども、世間一般の婚姻を如何ともすること能はず。当人の心をも、父母の命をも、媒酌の言をも、大社の神力をも概してこれを制圧し、自由自在にこれを御して、あるいは世の縁談を整はしめ、あるいはこれを破れしむるものは、世間ただ有力なる米の相場あるのみなり」、つまり人間の心情などはどうでもよく、全ては経済学的な数字により、物理的な多寡により動いていると主張し、徳をもこの図式に投入しようと企図しているのです。

 このような文脈で思考している福沢からすれば、全ての思考経過を数学的に把握するということが智になります。すなわち人間社会のありとあらゆる現象はこの唯物的思考法が進歩する限り無限に進歩すると考えています。すべては統計学を用い数式で把握可能とし、さらに人間を功利的存在とした上で、その心情までをも経済政策、つまり数学と統計学的操作で支配しようとします。このように考える福沢にとって徳義といったものが存在しては不都合だということがお分かり頂けると思います。確かに、今は不完全な社会だから、徳義や儒教だのを全部なくす必要はないと言いますが、あくまでこれは人間の非合理的行動を抑制する文明の方便だと考えよと福沢は言うわけです。そして、そのような方便は、人間がすぐに鬼神を拝んだりだとか冥加を祈ったりだとか、訳の分からない道徳の説話を聞いて涙を流したりすることを見れば、自然に生まれてしまうものであろうから、政治上の判断基準にする必要はないとします。

 ここでの福沢の論理は極めて明晰です。功利的人間の活発な社会活動から文明の利器が生まれる、となります。つまり『西洋人はこう考えています。おかしいと思うでしょ、でも蒸気機関があるじゃないですか。功利的です、でも議会があるじゃないですか。日本人は徳義が大事とかと言ってたけれど、蒸気機関もない、鉄道もない、どうなんだ』という具合です。福沢はこれを何の企図もない悪口で言っているのではありません。祭政一致の否定というも一貫した意志を持っています。例えば今まで『天道の御命令で政治を考えなければいけませんよ』とか、『自分たちが祖先たちの事業を継いで仕事をするんですよ』といったことを考えられると、数理でこっちの方が合理的だとしたとき、『それは道義的に間違っている』といわれ不都合なのです。だから祭政一致を分断し、政治とは全て無情な数字で動いている、そのように考える基盤を作るのが智だという具合に主張していきます。

 さて、このように考える福沢の政治を実現するには歴史というものを説明しなければいけない。次からは福沢が日本史をどう見ていたのか。それを見てみましょう。

 

【福沢の歴史観】

 福沢は「日本国の歴史はなくして、日本政府の歴史あるのみ」「日本には政府ありて国民なし」、つまり江戸の部で触れた〝人民〟の存在を感じ取れないと言います。その福沢にとって天皇はどういう存在なのかというと「そもそも我日本国も開闢の初に於ては」「腕力強く智力最も逞しき者ありて、これを支配するか、あるいは他の地方より来り、これを征服してその酋長たりしことならん。歴史によれば神武天皇」「一人の力にて能すべきことにあらざれば、その酋長に付属して事を助る者、なかるべからず」云々。福沢はこの酋長という言葉を使う時は明らかに『未開』ということを言外に示していますので、天皇というのは未開の文明の酋長であるというわけです。従って王政時代は「被治者は治者の奴隷に異ならず」という理解になります。ただ、こう言うからには当然仁徳天皇の事暦などにも解釈を加えなければなりません。そこで福沢は「仁徳天皇、民家に炊煙の起るを見て、朕、既に富めりといいしも、必竟、愛人の本心より出て、民の富むはなお我富むが如しとの趣意にて、如何にも虚心平気なる仁君と称すべしといへども、天下を一家の如く視做してこれを私有するの気象は、窺い見るべし」、つまり仁徳天皇があのように仁愛をおかけになったのも、結局は自分の私有物だからだと評価するのです。このような歴史観に立って、福沢は何としても日本は先程説明した〝文明の発達史〟に該当しないということを立証し、智・数理に導かれる世界に変革しようとします。そこで、その後の歴史も「源平の起るに及んで、天下の権は武家に帰し」云々「治者と被治者との分界益判然として」「織田も豊臣も徳川も、各日本国中を押領してこれを制したれども、そのこれを制するに巧拙あるのみ」「譬へば古来日本に戦争あり。あるいは甲越の合戦といひ、あるいは上国と関東との取合といひ、その名を聞けば、両国互に敵対して戦ふが如くなれども、その実は決して然らず。この戦はただ両国の武士と武士との争にして、人民はかつてこれに関したることなし」「この時代の武人、快活不羈なるが如くなれども、この快活不羈の気象は一身の慷慨より発したるものにあらず、自から認めて一個の男児と思ひ、身外無物、一己の自由を楽むの心にあらず、必ず外物に誘われて発生したるものか、否らざれば外物に籍りて発生を助けたるものなり。何を外物といふ。先祖のためなり家名のためなり、君のためなり父のためなり」「日本の武人は、開闢の初よりこの国に行はるる人間交際の定則に従て、権力偏重の中に養われ、常に人に屈するを以て恥とせず」。つまり、武家が起こったけれども、治者と被治者の階級差というのは非常に開き、善政などなどなく、ただ単に圧政に上手い下手があったというだけだとします。さらには、武士は個人の独立ということを知らなかったから、先祖だとか家名だとか君や父だとかという外物にふりまわされていただけで見るに足らない恥知らずな存在だと定義づけます。このようにして、神武創業の時の価値であるとか源平の時だとか戦国の時の立派な武将の談話というのを一つ一つ潰し、懐古主義、つまり文明開化後のそれに対する懐疑、道徳の大切さを訴える基盤を一つ一つ潰していきます。

 総論として福沢にとって日本とは「譬へばここに甲乙丙丁の十名ありて、その乙なる者、甲に対して卑屈の様を為し、忍ぶべからざるの恥辱あるに似たれども、丙に対すれば意気揚々として大に矜るべきの愉快あり」「甲は乙に圧せられ、乙は丙に制せられ、強圧抑制の循環、窮極あることなし。また奇観といふべし」「その上下の関係、よく整斉して、頗る条理の美なるものあるが如し。即ちその条理とは、党与の内にて、上下の間に人々卑屈の醜態ありといへども、党与一体の栄光を以て、強いて自からこれを己が栄光と為し、かへって独一個の地位をば棄てて、その醜体を忘れ、別に一種の道理を作て、これに慣れたるものなり」「在昔三河の武士が、徳川家に附属したる有様なども、この一例なり」、つまり直近の上下関係においてある抑圧が発生するとそれを下に向かってまた抑圧する、換言すると不満を下に向かって下に向かって下に向かって抑圧してゆく。従って上の人間は仁政を布いているつもりでも、天皇が何か抑圧を加えることによって公家はその下に武家はその下にというふうに、人民に向かって抑圧が連鎖し、段階を経て下に向かっていく社会だとしています。このように日本社会は罪の意識なく圧政が加えられ、無自覚に抑圧が連鎖し、しかもそれを徳義というもので糊塗することで、抑圧されている側に『実はそれが忠義だ』と勘違いさせ、抑圧の度合いを増すという原理を持っており、これは個人というものが存在しないことが原因だと説明します。実はこの論理は大政委任論に対する批判になっています。丸山眞男などはこの議論に飛びついて日本ファシズムという話をするわけです。

 福沢は苦労して功利主義に該当する社会状況を日本の統治体系に確認しようとしました。しかし、一つも出てこなかった。また、福沢が一つの独立の模範としているゲルマン民族に該当するような歴史というのも日本史のどこを探しても出てきませんでした。むしろ日本の統治者は常にこの政策を行うのに何の意味があるか、あるいはこれは人として正しいのか道義的なのか、はたまた日本の国柄は何なのかなんてことを考えてばかりいる。もっと自我を出し、ゲルマン民族が他民族を拉致したりだとか火を放ったりだとかしているようなことを求めたのですが出てこないのです。福沢からすると困った事態です。

 そこで編み出したのが前段の日本ファッショ論の萌芽のような主張なのです。日本の為政者の振る舞いは所詮正当化に過ぎないとして攻撃し、日本社会は政権によって作られた徳義、作られた伝統によって階層ごとに下へ下へと抑圧を加え自己の不満を解消する社会であったとし、階層的な人民抑圧史とするのです。

 この文脈の上で、福沢は本来自由を獲得するための学問ですらこの体系を維持するための存在に過ぎないとして、江戸の儒学者を全部一括りに、碩儒・藩儒・町儒者に限らず、全て秩禄を求めて学問を行い、表で高尚なことを言いながら心は〝えた〟に等しい者達であり、それもそのはずで孔孟がそういう仕組みを作ったからだというかなり暴力的な、学生のレポートなら絶対に単位が出ないレベルですが、無茶苦茶な論理で御用学問だと日本儒教史を批判します。

 なぜここまで無理をするのか。それは一度でも江戸の学問を認めてしまえば、自由の気配があったということになって自分の論理が破綻してします。そうすれば、やれ修養だの何だのと、また江戸に戻りかねないからです。このような事情で、福沢以降、政治目的正当化のための歴史の作成というのが日本の主流になるのです。

 会沢は国体というものをまず自分で客観し、批判的にきちんと自分の中で納得するまで検討して、そこから今を考えようとする。会沢に限らず。江戸の人は、皆かどうか知りませんけれども、基本的にはまずきちんと物を見て、その物のあり方、その人が何を言いたかったのかというのを見た後で私はこう思いますよと、これをかなり厳格にやっていたようです。しかしながら明治以降は自分がこうだと思うものに合わせ歴史を作る、思想史を作り、それを皆で批判して楽しむというような学問傾向が出てくる。この先駆者が福沢だというふうにお考えください。

 では福沢が言う本当の文明というものはどのようにできたのか、次のようになります。

 

【福沢の文明論】

 「人間の交際に於てその説一様ならず」「諸説互に並立して互に和することなきの一事にあり」「これ自主自由の生ずる由縁なり」「暗愚剽悍の内に、自から豪邁慷慨の気を存して、不羈独立の風あり。けだしこの気風は、人類の本心より来りしものにて」「後世欧羅巴の文明に於て、一種無二の金玉として、今日に至るまでも貴重する所の自主独立の気風は、これを日耳曼(ゲルマン)の賜といはざるを得ず」「ただ人心の自由を許すと許さざるとを争ふものなり」という風に西洋人がやっていることというのは全部自由を争い続ける戦いだとします。これも随分な歴史の組み替えでですが、その上で先程示した我が国の歴史に触れたあと、「顧みて彼の欧洲諸国の有様を見れば、大に趣の異なる所あり」「昔日は封建の貴族をのみ恐れたりしが、世間の商工次第に繁昌して、中等の人民に権力を有する者あるに至れば、またこれを喜び、あるいはこれを恐れざるべからず」「自から自分の地位の利を全うして、他人の圧制を圧制せんがために勉強するの趣意のみ」として、文明とは、商人つまり経済担当の階層から必ず政権に対する不満がからの権力獲得運動によって初めて誕生するとしています。故に、「幸いにしてペルリ渡来の事あり。これ改革の好機会とす」というふうに発言や、あるいは長州的な攘夷論は「ただ革命の嚆矢」という評価が生まれます。所謂黒船来航以来の西洋のアジア侵略というものは、福沢にとっては文明がもたらされた福音だと考えるのです。

 大転換ですね。今までは侵略だと考えていたものを福沢は福音が訪れたというわけです。

 結局攘夷論とは方便に過ぎなくて実際は「智力と専制との戦争」が始まっただけで、「この戦を企てたる源因は国内一般の智力なり」と言います。従って福沢は、のべつまくなしに人が争っている体制を作ると、それにより発明や経済交流、社会制度の整備が活発化するとして、自由や独立を追求する自我の発達した人々が互いに譲らず争いと和平とを繰り返す〝交際〟を活発化させようと、つまり摩擦を意図的に高めようとします。話し合ったり、惻隠の情を発揮したりしたら駄目なのです。枠組みを作るまで対立を繰り返さなければならないのです。従って徳川三百年の太平はむしろ経済活発化には不利益でしかなったとしています。ただ、福沢はここで徳川という時代が徳治だということは認めています。しかしながらその徳治が悪いという言い方をするのです。そうして「太平にても大した功用なきもの」、つまり太平だから社会が活発化しない、それは奴隷の太平であると言いまして、「文明のための金創」、つまり文明のために必要な傷、要は内乱も含めた戦争を行い、インドとかマレーとか土人の国に資本を貸し付けて土人に自覚させぬまま倒産に追い込んで資源と資本とを調達すべきであったとするのです。ここまでの議論におけるキーワードは〝文明〟、これは精神です、そして〝交際〟、これは抗争です、これらによる〝活発〟、そして〝経済〟という辺りが挙げられるでしょう。

 このように現状の批判ばかり主張してきた福沢が理想としたのは文明人と文明国家というモデルです。「政府と人民との関係に付き、文明の人の心に問はば左の如く答ふべし。国君といへども同類の人のみ、偶然の生誕に由て君長の位におる者か、または一事の戦争に勝て政府の上に立つ者より外ならず、あるいは代議士といへども、素と我選挙を以て用ひたる一国の臣僕のみ、何ぞこの輩の命令に従て一身の徳義品行を改る者あらんや、政府は政府たり、我は我たり、一身の私に就ては一毫の事といへども、豈政府をして喙を入れしめんや、あるいは兵備刑典懲悪の法も我輩の身に取ては無用の事なり、これがために税を出すは我輩の責にあらずといへども、悪人多き世の中にて、これと雑居するが為に、止むを得ずして姑くこれを出し、その実はただこの悪人に投与するのみ、然るをいわんや政府にて、宗教・学校の事を支配し、農工商の法を示し、甚だしきは日常家計の事を差図して、直に我輩に向て善を勧め生を営むの道を教るがためにとて、銭を出さしめんとするに於てをや、謂れなきの甚きものなり、誰か膝を屈して人に依頼し、我に善を勧めよとて請求する者あらん、誰か銭を出して無智の人に依頼し我に営生の道を教へよとて歎願する者あらん」、つまり文明人というのは徹底的に自我、とにかく税金も出したくないと、あれもこれもしたくない、あいつもこいつも偉くない、ただ俺だというものです、を出すものだとします。そして、文明国家とは「徳義は文明の進むに従て次第に権力を失ふといふといへども、世に徳義の分量を減ずるにあらず」「文明の進むに従て智徳も共に量を増し、私を拡て公と為し、世間一般に公智公徳の及ぶ所を広くして、次第に太平に赴き、太平の技術は日に進み、争闘の事は月に衰へ、その極度に至ては、土地を争ふものもなく、財を貪る者もなかるべし。いわんや君長の位を争ふが如き鄙劣なる事に於ておや。君臣の名義などは既に已に地を払て、小児の戯れにもこれを言ふものなかるべし。戦争も止むべし、刑法も廃すべし。政府は世の悪を止るの具にあらず、事物の順序を保て時を省き、無益の労を少くするがために設るのみ。世に約束を違る者あらざれば、貸借の証文もただ備忘のために記すのみ」「家内の礼儀厚ければ、また教化師の説法を聞くに及ばず、全国一家の如く、毎戸寺院の如し」「父母は教主の如く、子供は宗徒の如し。世界の人民は、あたかも礼儀の大気に擁せられて、徳義の海に浴するものといふべし。これを文明の太平と名く」つまり、徳義の分量、僕が知る限り日本の思想家で徳義を分量で計測可能などと言ったのは福沢諭吉が初めてなのではないか思いますが、そのような徳義を持ち、全世界が一家の如くなり、刑法も、あれもこれも、そして戦争もないなどと非常に景気のいい定義をしています。

 しかし、いまこのように確認したユートピア論で説かれている理想社会と、先程確認したそれを構成する文明人との価値尺度がどうも真逆である、つまり文明人という常に自我を出し、俺だ俺だと言っている連中によって作られる社会に戦争も刑法もない、矛盾しているように感じます。実はこれはJSミルやアダムスミスつまり、イギリス流功利主義を引き継いだ結果と言って過言ではないのです。彼ら英国人の一派の考えは『全ての人間が自我と欲望をむき出しにして抗争すれば、傷つきあっていく内に相互に取り決めが必要であることを痛感し、「規則」が生まれ「制度」が作られる。この世界の道徳は保険などで使用する意味の「信用」と「約束」となります。結果、経済を通して世界は結びつき一つになる』といったものです。

 福沢は「文明論の概略」末尾で『報国心というのは偏頗心と同義だ。経済が発達すれば世界は一つになる。報国心とは文明の方便で、今は認めざるを得ないけれど、経済によって世界が一つになれば、そういったものもいらなくなる。文明の極致では全ての国王は消滅し、国家は解体されて世界政府が出現する』というふうに論じています。冒頭で福沢が疑似弁証法を用いていると話しましたが、これは福沢が『私はただ単に西洋を追いかけろと言っているのではない。西洋もまだ駄目で、半開の日本と未完成の文明の欧州は、私の主張するユートピア論、つまり文明人と文明国家というものによってアウフヘーベンされるべきだ。だから私は西洋の奴隷ではない。最後には日本により文明は確立されるのだ』と言っていることを指しています。これを本当に愛国的な思想と言ってよいか否かはさておき、福沢はこう主張して決して自分は西洋の下僕ではないとするのです。

 そもそも福沢を取り上げたのは〝一番流布した思想家〟だからということでした。『新論』が幕末を覆った思想であるならば、『文明論の概略』は明治を覆い爆発的に流行し、その後二つの流れが生まれました。一つは政治における経済効果と道徳的善悪は分けて考えなければいけないということ。もう一つは人間というものは功利を追い続ける生き物であり、あらゆる政策はこれを前提に考えなければならないということです。福沢の中では徳義とは私徳、つまり私のものでした。考えるべきは経済政策の善悪、或いは法律政策の善悪であり、こういった政策論を徳義であるとか道徳の問題から切り離して考えるべきだとしていたのです。明治を覆い尽くしたこの思想はその後主流を占め続けます。現在でも国会答弁では『経済政策が先だ』とか『教育なんていうのは後でいい』といったやりとりが盛んに行われています。

 ではそういった福沢に代表される明治一般を覆った開化思想に対して、勅書というのはどう対応したのか。実は勅書の変遷の中には、開化思想の広がりによって生まれた社会事象の影響がはっきり見てとれますので、これを見ていくことにします。

 

【勅書問題①五箇条の御誓文】

 まず五箇条の御誓文です。これは慶応四年に出されたものですが、勅書と考えることにします。この五箇条の御誓文によって明治帝は徳義のことは特に出さずに「旧来ノ陋習ヲを破リ天地ノ公道ニ基クベシ」、つまり江戸時代のいわゆる国体とか何とかといった議論を旧来の陋習と言って全部切って捨てるように、別に明治帝が仰っているわけではなくて、それを書いた人の考えですが、と言います。で、天地の公道つまり、国際法、万国公法であるとか或いは西洋で流通している民権思想といったものに基づくべしとします。

 

【勅書問題②教育勅語】

 その後、明治二十三年に教育勅語が渙発されます。『文明論の概略』などが大きな流れを作り出してしまっている時代です。この勅語の成立過程では大きな対立が生まれています。一方では開化思想論者が『こんな反動思想的なものを出されたら折角進めてきた文明国家の建設が後退する。こんなものを出されたら困る』と主張します。これらの領袖が福沢のパトロンのような男、木戸孝允です。彼に限らず、明治の長州閥というのは下級武士層が出自の者が多いからか、高杉を除いて藩に対する忠誠心というのは非常に低い。長州というのはとにかく権力の上にある人間は皆殺そうとする傾向があるようにすら思えます。戊辰戦争の戦跡を辿ると至る所で長州軍が非道の限りを尽くしています。ただ、同じ下級武士層でも薩摩はどちらかというと江戸を引き継いでいる人が多いです。戊辰戦争の時でも薩軍は戦場で長州の様に相手を皆殺しにしたりとせず、人物だと見れば躊躇無く登用したりとか膝を屈して教えを請うことが多い。

 話しを戻して、教育勅語の積極推進論者ですが、代表的な人物に熊本の儒学者、元田永孚が挙げられます。『熊本』は後々大きなキーワードになってきます。さて、元田は「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ、此レ我カ國體ノ精華ニシテ、教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」、つまり会沢の国体論に近い発想で、『お前たちに徳義がちゃんと備わっているからこそきちんと仕事をしたり何かしたりできるのだよ』という説き方をしてきます。

 

【勅書問題③戊申詔書】

 日露戦争終戦後、経済発展が進みさながらバブル時代のような明治四十一年になると、政府は民衆がもう誰の言うことも聞かないから急いで勅書を出して、陛下のお言葉で道徳的な引き締めを行う必要性を感じます。

 それで出たのが戊申詔書ですが、「庶政益々更張ヲ要ス」「抑我カ神聖ナル祖宗ノ遺訓ト、我カ光輝アル国史ノ成跡トハ」「維新ノ皇猷ヲ恢弘シ、祖宗ノ威徳ヲ対揚セムコトヲ庶幾フ」云々としています。ここでは浮華という言葉も用いているのですが、これは現状が余りにも酷いので更張・緊張が必要だ、つまり今までは政治目的のために歴史を作っていたが、今度はやはり道徳的なことをきちんと説明するために、国史に流れている思想からこうすべきだよということを説得しなければ、とても纏められないという発想で戊申詔書を出しているのです。しかし、ここで特徴的なのは維新とは、前に説明したように『旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべき』を目的として、つまり開化を進めることを目的にしているのです。しかし、祖宗とは国体に基づいてちゃんと道義的にやること。つまりここでどちらに取っていいのか分からない二律背反ジレンマが起こった混乱した勅書になっております。

 

【勅書問題④国民精神作興の詔】

 それが大正十二年の国民精神作興の詔、これは先帝陛下が実質的に主導されたもので大正帝の御名によって渙発されたものですが、では「國體ニ基キ淵源ニ遡リ、皇祖皇宗ノ遺訓ヲ掲ケテ、其ノ大綱ヲ昭示シタマヒ」云々「浮華放縱ノ習漸ク萌シ、輕佻詭激ノ風モ亦生ス」というふうに戊申勅書で懸念されたことが何ら解消していないことを示しています。実はこれに対しては、そこの染井霊園にお墓がある安岡正篤氏が、『五十年も経たないうちに道徳的なことに関する国民に向けた勅書が三度も出たのは古今未曾有のことであって明治の時代というのは、彼は明治三十一年生まれですけれども、諸君知らないかもしれないけれども本当に道徳的に滅茶苦茶だった』と申しております。ですから勅書というものを見て、『ああ明治というのはこういう国だったんだ』と、教育勅語を見て『こういう国だったんだ』ということを言う人が多いですが、実は事実は全く反対で、開化思想が跋扈し、皆が功利功利で進んでいって収拾がつかなくなった時代が明治だったのです。であるが故に、古今未曾有の三度詔勅渙発という事態になっているのです。つまり、詔勅が三度も出ているということは、それだけ事態が深刻化している証拠であると考えていただければと思います。ではそれを裏付けるような明治の空気というものを見ていきましょう。

 

【明治の空気・夏目漱石】

 例えば夏目漱石の「私の個人主義」にはこう書かれています。「国家は大切かもしれないが、さう朝から晩迄国家々々と云って恰も国家に取り付かれたかのやうな真似は到底我々に出来る話ではない」「豆腐屋が豆腐を売ってあるくのは、決して国家の為に売って歩くのではない。根本的の主意は自分衣食の料を得る為である。然し当人はどうあらうとも其結果は社会に必要なものを供する」、極めて功利主義的な考え方です。夏目が自分自身で功利主義を奉じていたとは思えませんが、しかしながらこういったことを言葉にして、しかもこれは学習院で講義したものですけれども、これを学生が得心して名講演として後世にまで残る風潮があったのが明治という時代です。さらに『私の個人主義』で、夏目がさんざん説いているのは熊本への大批判です。なぜ熊本なのか。それは熊本が明治以降も開化思想に全然馴染まらず、鎮台ができても糞鎮と呼んで排斥するなど、とにかく『武士の方が倫理的に正しい』として譲らない。福沢の本も功利主義の臭いを嗅ぎ取って燃やしてしまうんです。だから夏目漱石が来て『個人主義というのは、まあ人に迷惑かけない限り何やってもいいんだよ』など講演すると、熊本人は怒って『この野郎怪しからん』と吊し上げます。そういう背景があってか、夏目漱石は『あんな未開で野蛮な所はない』と言って、「こころ」でも「三四郎」でもとにかく熊本というのは封建の遺習が残る野蛮な地だと言うんです。

 

【明治の空気・鈴木大拙】

 次に挙げるのは鈴木大拙の「明治の精神と自由」です。これは大拙が自分の育った明治時代を懐古したものですけれども、そこにはこのように書いております。「自分の覚えて居る限りでは、当時の若い者の放蕩性である」云々「近所の若い者、大抵は二十から三十頃の人々だと思うが、遊里に出入して随分と『散財』をやったものである。それがためか、また西南戦争の余波でか、家財を蕩尽した結果、家屋や土地を売り払って他郷へ行く者が続出した」「家には、福沢諭吉の著書もあり、ミルの自由の理もあった」と。このように滅茶滅茶であるという客観的事実、後はこれはただ単に鈴木だけを上げただけで明治のものを見れば何でも書いているんですけれど、福沢だとか功利主義のミルの本がどの家にもあって読んでいるんです。で「英語から学んだところでは、そこに含まれているヨーロッパ文化及び思想及び政治機構などと云うもの」に非常に新鮮味があって「それ(東洋)に更わるものが欲求せられる」と書いています。或いはセルフヘルプの精神がどうのとも書いていますけれども、とにかくこのように恐るべき勢いで開化思想というのが国家の隅々にまで広がったことが明治の特徴であります。そして精神・徳義・道徳というものはとりあえず置いておいて、むしろ数量計算・唯物的計算といったものによって全てを把握する。明治以降産業が爆発的に発展したのはこの考え方があるからです。これは間違いありません。しかしながらその一方で、それでは収拾しかねる。福沢は公智が進めばこういった理想社会ができると言いましたけれども、工業化を進めました戦争にも勝ちました、こういうことをやってるうちに詔書渙発三度という異例中の異例自体を通しても収拾できないぐらい徳義が廃頽してゆく。夏目漱石なんていうのは軍人が大嫌いでありまして、軍人だとか武士なんてのは大嫌いなんです。だから私の文学、独立自存の文学によって実は国家をこれから指導してゆくんだということを言っております。

 しかしながら夏目なんていうのはこういうふうに個人主義をやってれば国家主義にもなるんだよと言ってますが、実は徴兵令が布かれた時に真っ先に戸籍を徴兵令の適用範囲外の北海道に移して徴兵忌避したのも夏目です。或いは鈴木大拙なんていうのも仏教を以て世界平和をと言ってますけれども、結局この功利主義、世界の経済とか何とかが数量で動くのはしょうがない、しかしながらここに東洋の優しさなんてものを感じとってみようとこういう言い方をするんです。つまり明治以降の思想状況においては会沢のような気迫がないんです。会沢は何だそんなものが来たのかと、日本の今までの精神的なものを持っていれば、その思考経路によって何でも摂取して解釈して我流のものにしてやってやるよと、学者即政治家なんだと、来るなら来いと、江戸の段階ではこういうダイナミックな考え方があるんです。しかしながら明治以降は鈴木大拙みたいな高名な人でも何でも、こういう世の中だから功利というものはしょうがない、しかしながら徳義みたいなものもちょっと考えてみようねなんて言って、絶対そこに干渉しない。干渉する気迫がないんです。従って学問というのも全部翻訳文化になって、更に批評文化になってゆく。福沢の言うようなディベートが重ねられて自己にさんきゅう(?)し、修養ということをしない。だから儒教に関してもそれ以降目立った学者が出ないんです。そうしていて会社における儒教だとか、経済に役立つ儒教なんていう本が出てくるけど、決して今上げたようなこの功利主義が根本となっている明治体制下の思想状況に挑戦しようという思想家は一人も出て来ないんです。一人も出て来ません。周縁をぐるぐる廻っている。

 モラルっていのは福沢の中ではどちらかというと功利に走り回って滅茶苦茶になる人に自己的に規制をかける束縛です。つまり江戸の方が倫理は楽しみだった、君子は人であるとこう言っていたのが、明治以降は倫理は束縛である、私は欲によって自我を発達させる、なのにここら辺で止めておかなきゃいけないという所に気づくためにモラルがあるんだとなって束縛になるんです。こういうふうな社会状況を作ったのが明治だというふうに考えます。しかしながら明治帝御自身は、実は乃木大将がこの事態を憂慮して水戸学の叢書を全部かついで持って宮中に行ってこれ読んでくださいと言った時に、明治帝はこれは立派な書物であると言ったように、明治帝や乃木将軍みたいな人というのは実はこの勅書だとか水戸学の系譜なんです。

 しかしながら明治時代ということになると実は明治帝の大御心とは別のベクトルで進んでゆく。そうしてそれは今日まで続いているということです。例えばこういう一例で考えてみてください。地理の時間に我々は共産主義と自由主義の講義を受けます。で、共産主義というのはみんな所得を平均化するから、働いても働かなくても所得が同じだと面倒くさくて働かない人が出て来ますね、そうすると共産主義というのは成り立たなくなって崩壊しちゃうんですと。これに対して資本主義というのは働けば働くほど所得が増えてゆくから、頑張れば何とかなると言ってやるんですと。だから資本主義の方が発達しますねと、たいてい中学校の地理でこういう教えられ方をすると思います。福沢の考え方ならその通りなんです。何故なら人間は功利で動いているから共産主義なんかになられたら困る、自由主義・資本主義でやればどんどんどんどん発展してゆかなきゃいけない。実は我々地理の時間で教えられるこういう些細なことも、福沢の功利主義というか開化思想のそれがそのまま続いていて、我々はそれを常識だと考えているんです。或いはこういう時にこそ教育というものを考えようと言うと、今は経済が問題だからまずそっちを先に考えましょう。

 で、今度は裕福になったからそろそろ教育のことをと言ったら、裕福になったからこそ社会サービスのことを考えるべきであって、教育のことは別だとこう考える。しかしながら会沢の発想で考えてみてください。会沢に言わせれば共産主義だってかまわないんです。何で働いているかと言ったら自分が祖先の業を受け継いで世の中を安泰にするためにやるんだという自覚があるんだから、共産主義なら共産主義で食ってけるならそれでかまわないでしょ、全体で上手くやりゃあいいと。資本主義なら資本主義でその資本というのをどうするかと考えないと破綻しちゃうんだから、どうするかということを考えなければいけないと。つまり会沢の思想というのはイデオロギーではないんです。イデオロギーというのは社会はこうでなきゃいけない、あれはこうしなきゃいけない、人間はこうしなきゃいけないというふうになっちゃうんです。

 しかしながら会沢がなぜそこで忠恕による修養を強調したのかということなんです。水戸学はイデオロギーではないんです。会沢はそういう自覚を持って生活に取り組むと。現実の社会というのはそう簡単にあれはこうしろこれはこうしろなんていうことで単純に方のつく問題ではない、だからこそまずきちんと自分の心というのを定めて、どういうベクトルで物を考えるかということを定めて、国体によってはっきり明確化すれば、世界には色んな問題があるにせよ、それを全部統一的に解釈できるではありませんかと。しかしながらそれを把握するためには、心情的に社会の人と係わって自分の心というものを社会の人たちとの結びつきによって実感してかなきゃいけないんだと。役割であるとか国柄といった価値は生活における実感でしか確認できないんだと、こう考えるわけであります。ですので今回このような講義をさせていただきましたが、その言わんとするところは一番最初の問題の所在に戻っていただきたいと思います。

 問題の所在、我々が自由にものを見、自分の頭で自由にものを考えるていると思っていることは果たして本当かと。実は先ほど話した地理の話で言いますと、共産主義と資本主義の話を受けて、そうだそうだ共産主義が悪いなんていうのは自分の頭でものを考えていることにならないんです。つまりこうでしょああそうだねと言っている時点で自分の頭の中にはすり込まれた功利思想というものが入り込んでいるから、ああそうだねと言っているわけです。こういうふうに色んな意味でのベクトルを作っているのが明治である。だから我々は祖先から継承されてる江戸の精神も持っていますから、会沢の言うことに対してそうだと思う所もあるかもしれない。或いは明治の精神だって入り込んでいるわけですから、ある部分では福沢の言うことにも一分の理ありと言うかもしれない。しかしながらまずそれをきちんと検討して、我が国の意味というのは何なのかということを考えないと、目先のこと、大東亜戦争は是か非かなんて言っていても始まらないんです。何で大東亜戦争は是なのか。

 何の統一的意志に基づけば是なのかということを考えなければ、我が国はどうしても問題の所在というものが分からない。そして日本は思想なき国なんていうことを侮蔑をよく海外から言われますが、江戸までは日本は思想がないどころかもの凄いダイナミックな思想を持っていたんです。それが無くなったのが明治以降であると、こういうふうにお考えいただければいいかと思います。

 では以上を持ちまして私の発表を終わりにいたします。どうもありがとうございました。

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